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言葉 ( 講演録等 )

平成15年全国暴力追放運動中央大会講演

 

「『暴力』に立ち向かう。毅然として!」

 

 中國新聞社社長
今中 亘

 


1.はじめに

 
 ご紹介に預かりました今中でございます。受賞者の皆様に心からお祝い申し上げます。声がかかりましたので、老兵の身を顧みず上京してまいりました。毅然として暴力に立ち向かい、そのことで顕彰された皆様や、組織暴力団の壊滅に日夜奮闘されている警察幹部の方々を前にして、おこがましい限りです。釈迦に説法とならぬよう、かつての取材体験を通して暴力追放への思いを語らせて頂きます。 
  先程ご覧頂いたビデオは、暴力追放広島県民会議が昨年秋、設立15周年と暴対法施行10周年を記念して企画した暴力追放広島県民総決起大会に合わせて製作したものです。悪名高い「広島けん銃抗争事件」の歴史が、コンパクトにまとめてありますが、私はこの中の、第二次と第三次抗争の取材に深く関わりました。


2.暴力の街と化した広島

 
 1年7ヶ月の間に、22回の発砲事件を引き起こし、死者13人と負傷者19人を出した第二次抗争では、ほとんどの現場に駆けつけています。当時の社屋が事件現場の繁華街に近く、編集局の宿直室にずっと寝泊まりしていたので、パトカーよりも早く現場に駆け付けたことが何回もありました。拳銃の乾いた発射音や、血の匂い。殺傷事件の現場の光景が、生々しくよみがえってまいります。
 国際平和都市を標榜し、市長が「8・6平和宣言」を世界へ発信し続けるこの街が、一時的にせよ「暴力の街」と化したのです。仁侠の仮面を被って暴れ放題。昼夜を分かたず拳銃を発砲し、一般市民をも巻き添えにしました。広島県民・市民にとって、忘れることができない、いや決して忘れてはならない忌まわしい歴史の断面です。
 第二次抗争事件の勃発は、昭和38年4月。中國新聞社に入社して4年目の春でした。私以下、記者歴3年そこそこの前線の若い4人が、恐怖感を克服しながら無法者の集団に怒りを募らせ、「よくぞ書いた。もっと書いてくれ」「引き下がるな」という読者のエールを背にして、がむしゃらに突っ走りました。キャンペーンなどと言うと格好よく映りますが、これは後で付けられた言葉です。初めの頃は、事件現場で組員に取り囲まれて震え上がり、オシッコを漏らした新米記者もいました。ペンで対決していくうちに鍛えられ、度胸も付いた訳です。


3.傍若無人の振る舞い

 
 事件現場に駆け付けると「またお前らか、いちいち来るな」と、仲間をやられて殺気立っている組員は毒づきましたが、「仕事、仕事。邪魔をしないでくれ」と言い返せるようになりました。暴力団対策法のような、取り締まりの有力な手段など無い時期ですから、抗争事件の一方で、刑事か民事かのスレスレのところを突いて彼等は悪行を重ねました。「警察の調べによれば」とは書けない、きわどい記事をたくさん書きました。      
 代紋をちらつかせて夜ごと繁華街をかっ歩し、飲食しても金を払わない。組員10数人が住み込んでいる豪邸なのに、500円の均等割市民税しか納めていない。公共の憩いの広場にバッティング・マシーンを据え付けて、資金稼ぎをしている。悪事を生業とし、市民生活を脅かしている組長が市民病院の特別室に入院して、組員にガードさせていると、片っ端から記事にしていきました。これがまた、彼らを怒らせる。「これ以上突っ込んだら仕返しをされるかも知れない」と思いつつ、彼等の悪性を暴くために書き続けました。 ビデオにありましたとおり、遂に自宅を襲われました。「こんな卑劣な手段で来るのなら」と取材をエスカレートさせたら、続いて社長の家に銃弾を撃ち込まれました。これは国会でも取り上げられました。「報復攻撃にも決して屈しない」というスタンスは去年、日本新聞協会賞を受賞した暴走族追放キャンペーンに至るまで、後輩たちに引き継がれています。


4.マスコミへも矛先

 
 「全然怖くなかった」と言うとウソになるかもしれません。何せ彼らは、拳銃で武装した無法者の集団です。私達にはペンがあるだけで、いわば丸腰です。白昼、喫茶店や新幹線のプラットホームで拳銃を乱射し、ダイナマイトで組事務所を爆破する、見境のない連中でした。                         
 最初のころ、夜中に物音で飛び起きたこともありましたが「記者として書くべき事を書いているんだから、やられるような事があっても仕方ない」と覚悟を決めたら吹っ切れました。事件のさなか、県警本部に近いビルでタイル貼りの壁面が崩れ落ち、たまたま通りがかった人たちが大けがをする出来事がありました。現場に駆けつけて「ああ人間には、運命的に防ぎようのないこともあるんだ」と思ったことも、開き直るきっかけになったように思います。彼等がマスコミへも矛先を向ける理由は、はっきりしています。悪事を糾弾し、取り締まりの強化を迫り、住民団体に決起を促したりするのが彼等には、とても困るわけです。 
 自宅を襲われたのは昭和60年1月のことです。この頃、抗争事件が途絶えていて、監視や取り締まりが甘くなっていました。傍若無人な振る舞いがまた目立ち始め、指定暴力団・共政会の三代目会長が、広島市内を見下ろす高台に鉄筋3階建て、要塞まがいの大豪邸を建てました。「生業を持たず社会に害毒を流し続ける人間に、こんなことをさせていいのか。資金の出所はどこなのか。適正な課税措置はとられているのか…」と厳しく追及しました。   
 その会長が組幹部らを従えて、広島県警の本部庁舎と同居する県庁旅券センターへパスポートの申請に訪れ、玄関周辺を数台のベンツで埋めるという暴挙に出ました。県警本部詰めの記者が、これを見過ごすはずはありません。「こんなことを許してよいのか」と社会面のトップ記事で報道しました。警察をなめ切った態度に県警本部長が激怒し、翌日「共政会集中取締本部」が発足しました。 
 けん銃の撃ち合いを暴力団の隠語で「ドンパチ」と言っていますが、「わしらがドンパチをやっとる訳でもないのに、中國新聞がしつこく書くからサツが引けんようになるんじゃ」という会長の憤まんが捜査員を通して私の耳に届きました。「これ以上書けば危ない事になるかもしれんぞ」と忠告してくれた捜査幹部もいました。その危ない事が現実となりました。


5.報復の銃弾

 
 報道部長のポストにあった私の家が襲われたのは、集中取締本部発足の翌未明だったのです。壁面に大量の塗料をぶちまけられました。大雪が積もった日の明け方、「キャア」という家内の悲鳴で飛び起きました。家内が玄関口の郵便ポストから引き抜いた朝刊が、塗料で染まっていました。続いて飛び出した私の目に映ったのは、銀世界の中で玄関や三方の壁にぶちまけられた、おびただしい量のドス黒い塗料でした。タール特有のきつい匂いがしたので、ガス器具やストーブに点火しないよう家人に言い含め、寒さと恐怖感で震えが止まらない3人の子供たちをなだめながら、生まれて初めて110番をしました。これでひるめば彼らの思うツボです。「こんな卑劣な手段で来るのなら」と取材をエスカレートさせたら2週間後、社長の自宅に真夜中、散弾銃が撃ち込まれました。通りに面した2階の部屋の防弾ガラスが砕け散っていました。それからほぼ2ヶ月、パトカーの集中警らが続き、警報装置を取り付けたり番犬を飼う羽目になりました。
 第二次抗争の時は独身でしたが、この時には、妻子がありました。おびえがちな子供たちには「怖くて記事を書くことをやめたら、お父さんの仕事は成り立たない。お巡りさんもパトロールしてくれているから安心しろ」と言い聞かせました。よくしたもので記者の仕事を理解し始めてくれ、家庭を顧みなかった私ですが親子の絆は深まったように思えました。


6.中心街に組事務所建設を画策

 
 暴力団への対処の仕方は、立場やケースによって多様だと考えますが、確信を持って言えることがあります。脅されたり不幸にして被害に遭った時、勇気を出して警察へ届け出る。地域社会の問題なら団結して立ち向かう。これが排除や追放の決め手になる、ということです。「暴力団がなぜ怖いのか」。無法者が徒党を組んでいるからです。一人だと臆病なくせに、徒党を組み銃を隠し持つことで、凶暴な集団に変わる。徒党を組まなければ、威圧できないことを知るがゆえに、勇敢な市民や団結した住民を前にすると退く訳です。暴力追放運動の原点は、ここにあると思います。
 ビデオにもありましたが昭和56年の秋、共政会が広島市の中心街に5階建ビルの建設を画策しました。着工の直前になって、組事務所に使われることが分かりました。地区の暴追団体が建設中止を申し入れましたが、無視して地鎮祭を強行しました。調べてみると、既に建築確認申請を市役所に受理されていて、いつでも着工出来る状態にあったのです。広島東警察署に呼ばれた共政会の幹部は「確認申請を受理されている。正当な権利の行使だ」と開き直りました。警察やマスコミの後押しで阻止運動に立ち上がったのが地区住民です。暴追団体が町内会や防犯連合会と連携。「こんな所に共政会の本拠が置かれたら大変な事になる」と署名運動に乗り出し、市の建築審査会へ取り消しを求める請願書を出しました。
 県警もすかさず進出阻止の推進本部を立ち上げ、私たちもジャンジャン書きました。住民の団結、警察との連携が見事に功を奏し、3週間後にビル建設を断念させました。東警察署長に建設中止を伝えた後、署から出てきた共政会の会長は「住民の反対運動がこたえた。署名集めやデモ行進までやりゃあがって」と顔をゆがめました。
 会長のこの言葉は象徴的です。住民が団結して立ち上がる。警察がバックアップする。マスコミがこの動きをリードし、的確にフォローする。この一件は、暴力団が新たな資金源を求めて組事務所を構えようとする動きを潰す際のモデルケースになったと思います。


7.団結こそ力

 
 建設阻止へ向けて集中報道をした中國新聞に、共政会の会長は怒りをあらわにし、配達証明付きで「警告書」を送りつけて来ました。毛筆で3ページに及ぶ文面には「私が建築を計画している住宅に対し、親愛なる付近住民、良識ある一般市民はもとより、防犯組合、環境衛生組合に対し、果たして大部分のそれらの者逹が、いかなる思いであるかも確認せず、その者達が錯覚に陥る様な報道を弄し、妨害している事は報道の倫理に反し、事実を無視し、法に定められた人権をも侵害した最大なるペンの暴力として断固抗議するものである…」などと書き連ねたうえ、「一方的な偏向報道をもって私にこれ以上、経済的・精神的な打撃を与えるならば、いかなる手段をもってしても断固戦う」と結んでいました。結果的にみれば、我が家と社長宅への襲撃事件は、手荒い手段で警告を実行に移したことになります。
 しかし脅しに屈せず、報復を懸念しながらも市民が毅然として立ち向かったケースは、この組事務所進出阻止の一件に限りません。ビデオにもありましたとおり、組員の入店拒否を貫いて脅迫され、警察に被害届を出した高級クラブのチェーン店は、同時多発テロまがいの襲撃を受けました。広島市西区への組事務所進出阻止に敢然と立ち上がった住民代表は、二度にわたって自宅を襲われました。私たちと違って、ペンの力も何もない文字どおり丸腰の人たちです。
 去る8月、北九州市内の高級クラブが手りゅう弾で襲われ、9人もが重軽傷を負った事件は、同市を本拠地とする指定暴力団・工藤會系組員の犯行でした。経営者は地域の暴追運動のリーダー的存在でした。みかじめ料や入店拒否への組織的報復とみられています。因果関係は20年前の広島での事件とそっくりです。暴力団の警察への挑戦でもあります。暴力団から善良な市民を守ってこそ警察への信頼は増し、市民が被害届を出すかどうかのカギを握るだけに誠に残念な出来事です。
 相次ぐ報復事件に直面して、部下の記者たちへは「絶対に引くな。あの人たちでさえ毅然として立ち向かっているではないか。ひるんだり書くことを止めれば、彼らの思うツボ。向かって来るのは、われわれが追い詰めている証拠だ」と言いました。


8.存在を是認する風土

 
 暴力団の取材に長く関わったことで、取材体験を聞いて頂く機会が結構ありました。広島県の警察学校でも、初任科の一般教養科目のなかで第一線に出て行く生徒さんに「毅然として立ち向かってほしい。警察とマスコミがこけたら、この世は闇になる」と締めの言葉で訴えかけました。教壇に10年も立たせて頂いたので、この言葉を心の片隅に留めて頑張ってくれている警官が多勢いると信じています。
 多くの場所で、質疑の際に「広島になぜ暴力団がはびこり、どうして追放できないのか」と聞かれました。原爆被爆・戦災都市という歴史的な背景や、大歓楽街の流川界隈がもたらす豊富な資金源の他に、特に指摘したのは「彼らの存在を許容し、是認する風土」です。正業に就かない者たちの、あれだけの集団がしぶとく生き続けるのは、闇の資金源を抱えているからです。必然的に被害者は出ますが、沈黙して警察に届け出ない場合が多い。それどころか「必要悪だ」などとうそぶいて、彼らを利用する企業や団体が依然として後を絶ちません。広島県の福山市で、昨年から今年にかけて摘発された、指定暴力団・浅野組による公共工事に絡む大掛かりな恐喝事件は、そのことを改めて実証しました。民事介入暴力が跡を絶たないのも、根っこの部分は共通しています。
 
 ビデオの最後に、暴追運動のスローガンになっている「恐れない」「金を出さない」「利用しない」の、いわゆる『三ない』運動が強調してありました。しかし「金を出さない」「利用しない」の両方を守らずして「恐れない」というのは無理な話です。「恐れない」と言い切るには一市民として、あるいは企業や団体としても「何ら、やましい所がない」という身奇麗さが必要でしょう。つけ入るスキを与えないという事です。そして、反社会的な組織暴力団が地域に存在すること自体が、市民にとっても、行政や警察、マスコミにとっても不名誉なことなのだという共通認識を持ちたいと思います。


9.マフィア化させぬために

 
 報道部長に就任する前の昭和53年から55年にかけて、3年余りニューヨーク特派員を務めました。主たる持ち場は国連本部でしたが、またとない機会だと考え「マフィア」の取材に挑戦しました。ニューヨーク市警の組織犯罪取締部長に意図を伝えたら「ハドソン川に重しを付けて沈められても知らんぞ」と脅されました。そう言いながらも退職している、かつての敏腕捜査官を紹介してくれました。ガードしてもらいながら、マフィアの総本山と言われたニューヨークのマンハッタンを軸にして、10回の連載記事【資料末尾添付】をまとめました。シリーズの最後に「マフィアの築いた城は容易に突き崩せない。市民生活のあらゆる分野に、もはや抜き難く根を下ろしてしまったからだろう」と書きました。市民社会に広く深く根を下ろしてしまい、ほとんど「アンタッチャブル」な存在になっていたマフィアの実像を垣間見ました。
 準構成員を含めれば総数8万5,300人にのぼると言われる日本の暴力団ですが、山口組を頂点とする組織暴力団をマフィア化させないために、国民が挙げて「毅然として立ち向かう」時だと思います。その推進役は何と言っても警察です。山口組の末端組員による、京都府警の警官射殺の損害賠償訴訟で、先月、トップの渡辺組長に「使用者責任」を認定する画期的な判決が下りました。誠に口幅ったいことですが、昨今の組織犯罪の態様に追いつけなくなった感のある、暴力団対策法の見直しを急いで頂きたいと思います。組織暴力団の存在そのものが、善良な市民の基本的人権を侵害するという考え方は、既に国民のコンセンサスを得ていると見てよいのではないでしょうか。後追いではなく、機先を制する法体系の整備を願うばかりです。
 冒頭に司会者から過分な紹介がありましたが、第二次抗争事件が終結した翌年の40年に菊池寛賞を受賞しました。授賞理由は「地域社会に密着する地元紙として暴力団追放を宣言。徹底した報道を続けている勇気」となっていました。先ほど受賞の栄に浴された皆さん共々、「退路を断たれたのだ」と覚悟しています。
 広島県警は今、指定暴力団が拠点を構える広島、福山、尾道の県内三地区に特別取締本部を置いて、摘発に全力を上げています。また政治結社が得た違法な利益が暴力団の資金源になっているとみて昨25日には、全国初の「街宣屋等特別対策本部」を設置しました。歩調を合わせて、微力ですが報道の使命を果たして行きたいと考えています。ご静聴ありがとうございました。