言葉 ( 講演録等 )
平成20年全国暴力追放運動中央大会講演
「我が街に暴力団事務所はいらない」
会長 妹尾博隆
本日は全国暴力追放運動中央大会にお招きいただきまして、ありがとうございます。
1.はじめに
私は昭和17年9月に、鹿児島市の繁華街の一角にあります天文館で生を受けました。今年66歳になります。戦時中、私の家族は鹿児島市から20キロほど離れた田舎に疎開しておりましたけれども、父は一人残りまして、警防団の団長として、敵からの空襲とか火災から地域住民を守る任務についていたようです。
昭和20年8月に終戦を迎えまして、昭和21年1月に現在の鹿児島市西千石町に移り住みまして、62年になります。
この私の住む千石町は、西千石町と東千石町からなっており、薩摩の藩政時代、千石どりの武士階級の住まいでした。城山の下に鶴丸城を控え、明治維新まで700年もの間、源頼朝の流れを組む島津家が統治しておりました。今もその名残として、千石馬場、天神馬場、二官橋通りという大きな通りがあります。隣には加治屋町と申しまして、明治維新で活躍しました西郷隆盛、大久保利通、そのほかたくさんの偉人を輩出しております。
140年ほど前、この西郷隆盛、大久保利通も、千石馬場を闊歩して鶴丸城に登城していたものと思われます。鶴丸城からはこの千石馬場を通りまして、今のNHKの大河ドラマ「篤姫」でも出てきました西田橋を渡って、参勤交代として江戸まで上って行ったということです。
城山というのは明治10年の国内最後の内戦、西南の役で、西郷隆盛が切腹したところであります。この城山の下に山下小学校があります。明治6年の創立で、明治10年の西南の役で火災を受けまして焼失しましたが、1年間休校したあと復興され、現在まで130年続いております。西南戦争で私の曾祖母なども炊き出しなどして西郷軍を応援していたそうです。
前置きが長くなりましたが、私達の住む鹿児島市山下校区は鹿児島の中心でもあり、九州の表玄関でもあります。名実ともに名所旧跡の多いところであり、観光地として全国に名を馳せております。
4年ほど前にNHKの特別番組「63億人の地図」で紹介されましたが、鹿児島では凶悪事件や犯罪等の発生が低く毎年減少していることが放映され、全国から大反響をいただき、鹿児島の警察も意を強くしたことを覚えております。
また、私達が住む街は日本でも類を見ないほど安心・安全な街として全国から注目されておりました。その中でも山下校区は歴史と文教の街として住民の方々は誇りに思っております。
その山下校区に共存共栄出来ない暴力団の組事務所が出来、地域住民の日々の生活環境が一変しました。安堵できない地域になってしまいました。我々住民としては、とても許すことは出来ません。山下小学校も同じで、生徒の下校時には先生達が同行したり通学路も変更したりしております。私の孫も通っておりますが、親子登校運動も始まっております。
それは、わが街に指定暴力団山口組系松同組組事務所が出来たことからです。新聞、テレビ等で大きく取り上げられ、皆様方には他人事ながらいろいろとご心配をいただいており、まことにありがとうございます。
この山下校区というのは、西千石町をはじめ、七つの町内会からなっております。また山下校区の中心にあります山下小学校は、私が山下小学校の1年生の時でしたが、昭和24年6月に昭和天皇もご巡幸されており、私どもの自慢の学校です。
2.組事務所の存在を知るに至った経緯
そもそも、暴力団組事務所ではないかと町内で噂が出たのは昨年の7月頃からであります。私もこの噂を聞き、さっそく見に行きました。鉄筋コンクリート作りの5階建てで、その階段全てに鉄板を張り巡らし、防弾ガラス、監視カメラが4台、まさに要塞といった感じでした。いかにも抗争事件を想定した外構えでびっくりしました。いつ乱射事件が発生してもおかしくないと思いました。このことで住民の不安というものは大変なものがありました。
そこで管轄の鹿児島中央署に出向き相談しました。その結果、確かに暴力団であることを確認出来ましたので、急遽山下校区の七つの町内会長、地域住民の方々、そのほか関係のある方を招集し、このとについて説明いたしました。
3.立ち上がった地域住民
昨年9月7日、西千石町の公民館に各町内会長をはじめ、鹿児島県警、鹿児島中央署、鹿児島市役所の安心・安全課、鹿児島県暴力追放センターなど総勢で50名ぐらい集まって頂きました。そこで協議の結果、暴排活動の拠点とも言うべき「山下校区安心・安全まちづくり推進連絡協議会」なるものを立ち上げました。
体制的にも70名あまりの名前を連ねて組織作りをしました。このとき協議会の会長の人選の話になりましたが、私は西千石町の町内会長でもあり、暴力団事務所も私どもの町内会に出来たわけですので、自ら潔く手を挙げて会長職を引き受けることにしました。
その後、10月まで3回の会合を持ちまして、暴力追放運動の準備をいたしました。パレードをするには道路使用の許可申請、町内会や関係機関団体等への呼びかけ、プラカードやのぼり旗の準備などそれぞれ任務を分担してやりました。なにせ初めてのこともあり、準備にも戸惑いを感じました。幸い関係機関、団体等からの全面的な協力を頂き、10月9日、第1回目の山下校区の暴力追放運動総決起集会に漕ぎ着けました。この日は西千石町の清滝公園というところに約300人の方に集結していただき、会場では暴力追放宣言を朗読したのち、組事務所までパレードを実施しました。その間シュプレヒコールを繰り返しながら行進しました。
「暴力団事務所はいらない! 暴力団は出て行け! 自分たちの街は自分達で守ろう!」
この三つが合言葉です。組事務所前では全員が立ち止まり、組事務所に向かって声高に、
「暴力団は出て行け!」
などのシュプレヒコールを繰り返し、私どもの気持ちを訴えました。
この時、協議会役員の一人が、組事務所撤去並びに解散要求書を読み上げ、住民の主張をアピールしましたが、これに対し組事務所からはなんの反応もありませんでしたので、この要求書は組事務所入り口の郵便受けに投げ入れ、住民側の意思を相手側に伝えました。
この暴力団事務所になったビルは、昭和56年12月に新築された鉄筋コンクリート5階建てで、床面積約500平方メートルです。内部は前の持ち主が歯科医院をしていたのですが、その住まいと診療所、待合室、店舗、車庫となっておりました。しかし今は大部分の箇所が改造されているものと思います。
当時の登記簿によりますと、平成19年2月28日に松同組組長、松下光生の所有になっておりましたが、組長逮捕後は信託という方法で配下の「アタエ」という人物の名義に変更になっております。
4.不安的中、刺傷事件発生
第1回目の暴力追放運動総決起集会翌日の10月10日、鹿児島中央警察署の担当者から緊急通報装置を手渡され、いつでも身に付けておいて下さいと言われました。このことが何を意味するかは、会長職を引き受けた時から常に脳裏にありました。私としましては忠実にこれを守ることにしました。
これについては事件後の現在でも身につけております。こういったものですけれども(現物を提示)……。緊急通報装置を付けてからは毎朝警察の担当者から「大丈夫ですか、変わったことありませんか」と確認の電話が来るようになり、私自身も次第に警戒心が強くなったことを覚えています。
私は会長職を引き受けてから、これは普通の戦いではないと、長い戦いになるものと一抹の不安を感じつつも、反面、引き受けた以上は何があろうと戦う覚悟を持ちました。
しかし、第1回暴力追放運動総決起集会からわずか10日後の10月19日、不覚にも自宅付近の歩道上で暴漢に左臀部を刺されてしまいました。事件当時家内は病気のため入院しておりましたので、私が毎朝決まった時間に自宅前にゴミ出しをしておりましたが、その機会を狙い撃ちされたのです。
暴漢に襲われた日は、いつものように朝7時半頃ゴミ出しに出ました。歩道をよく自転車が通るものですから、左右を良く確かめて、左前方の5メートルくらいのゴミ置き場にゴミを持って行き、置こうとしましたら左前方からスタスタっと小走りに走って来る者がおりまして、すれ違いざま声をかけられました。
なんと言われたかはわからないのですけれども、朝の挨拶かな、知っている人かなと思って振り返りました。相手も振り返り、いきなり私の左臀部を刺してきました。私はとっさに鹿児島弁で「何をすっとよ、こら!」と怒鳴りました。その時2回目がくるかなと思って、咄嗟に避けたような気がします。
この時、相手も私のほうを見ましたので目と目が合いましたが、私の知らない男であり、この男はその後、さっと振り返って走って逃げて行きました。相手の男は、ねずみ色の野球帽を深くかぶり、同じ色のウィンドブレイカーを上下着けておりました。
私も若いころスポーツをしておりましたし、腕力には自信もありましたが、9年前に脳梗塞の病気を患ってからは体力にも自信がなくなり、残念ながら相手を目の前にしながら追いかけることは出来ませんでした。
犯人が逃走してすぐに緊急通報装置で警察に異常を知らせました。この時点では刺された直後で興奮していたこともあり、傷についてはたいしたことはないと思い、とりあえず自宅に入ろうとしますと、ズボンの裾からたくさんの血が流れ出ているのに気づきました。
このとき初めて自分は刺されたのだなと、改めて被害を受けたことを実感しました。出血がひどくなったので自力で近くの病院に駆け込みましたが、治療を受けながら、早く担当の警察官に知らせなければと携帯電話で「やられました」と被害状況を説明しております。
それからというもの、病院内は警察と報道関係でごった返しとなり、報道陣からは何度も名前を出していいですかと確認されましたので、私は名前も顔写真もかまいませんと答えましたが、この時点では警察の方から止められました。それ以降、今日まで名前については承諾して出しておりますが、顔写真につきましては今後のこともあり、未だに出しておりません。
後になってわかったことですが、最初、松同組のほうでは私の顔を特定出来なかったため、インターネットで、私が所属しております鹿児島ロータリークラブのホームページに掲載されていました会員名簿の顔写真の中から私を見つけたようです。このようなことがあってからは、ホームページから顔写真は全員削除されました。
刺し傷は左臀部で、深さ5センチ、長さ5センチで切り口はナイフを抜くときにさっと切れて広がったものであります。致命傷にはならず、脅しのつもりだったようです。しかし、まかり間違えば命取りになっていたかもしれません。
ちょっと面白い話ですけれども、後になってわかったことですが、実行犯の自供によりますと、実際は2回刺しているようです。私の記憶の中では2回目は避けたという認識でしたが、実行犯は最初、ナイフの鞘をつけたまま刺し、その後慌てて鞘を抜き、2回目に私を刺したということです。私も気が動転していてこのことはわかりませんでしたが、実行犯のほうも慣れていなかったらしく、1回目は鞘を付けたまま刺したということです。かなり慌てていたのだろうと思います。
今回逮捕された共犯者の連中は、松同組組長の松下に「じじい一人もやれないのか」、などと檄を飛ばされていたと聞き、私もついにじじいと呼ばれるようになったのかなあと苦笑しましたが、49歳の組長からみれば66歳の私は確かにじじいの一人だなあと思いました。
この事件については共犯者の供述から、組長から早くやらなければ指を詰めろ、などとせかされた内容もあきらかとなりました。何が何でも私をやれといった、組織ぐるみの共通認識があったことを知り、いまさらながら暴力団の怖さをひしひしと感じているところであります。
これも後でわかったことですが、私は暴漢に襲われる1週間前から暴力団に行動を見張られていたようです。また私の会社の2階に関連事業として東洋医学の鍼灸の治療院がありますが、ここに犯行前に2回ほど刺青を入れた暴力団と思われる人物が様子を伺うようにして治療に訪れていたようです。院長の話によれば、治療に来たけれどもどこも悪いところはなかったということでした。この件につきましては、カルテの氏名が偽名を使ったとして、一連の事件検挙時において私文書偽造罪でも逮捕されております。
私は被害を受けたあと2週間、病院での入院生活を余儀なくされましたが、入院中考えることは暴力団追放のことばかりでした。部屋の外には、24時間体制で2、3人の刑事の方が交代で見張りをしており、面会もままならない状態でした。私がちょっと心配したことは、私自身が糖尿病の持病を持っていることから、傷口がふさがらずに入院が長引くのではないかと思いましたが、院長先生は、それよりもナイフに雑菌がなくてよかったですね、と安心する言葉を投げかけてくれました。
5.墓穴を掘った暴力団
私が刺されたことは不幸な出来事でありましたが、警察は昼夜を問わず事件解明に向かって動き出しました。捜査目的がはっきりしたことで、ほかの事件の洗い出しによる度重なる捜索や、組事務所前での機動隊による24時間体制の警戒などをやっていただき、地域住民も益々一致団結して暴排運動に取り組む姿勢がみられるようになりました。言い換えれば、私に対する襲撃事件で暴力団は自ら墓穴を掘ったに等しいということであります。
この事件がなければ、私どもの知らないままに暴力団組事務所として深く静かに進行して行き、やがては取り返しのつかないことになっていたことと思います。それは警察の捜査でわかったことですが、すでに事務所開きの準備を着々とやっていたということでも裏付けられます。そのころ警察から鹿児島市内のホテル・旅館業、あるいは飲食業者に対して事務所開き等の儀式の依頼を受けないよう、警告がなされていたようです。
6.急変した市民の暮らし
私が刺されるという、極悪非道な卑劣な事件が発生したことで、地域住民はただ驚きと不安におののいたことは言うまでもありません。これにより、日々の生活環境はこれまでとは違い、不安で、安堵できない街へと一変しました。
例をあげますと、人通りも少なくなり、商店街のお客さんも減り、売り上げは半減。また組事務所周辺のマンション、アパートも引っ越す人が多くなり、新しく入ってくる人はいません。空き部屋が多くなりました。不動産の価値も下がりました。不動産屋さんも困っております。この1年間の収入はほとんど0だということです。そして、さらに子ども達の笑う声やはしゃぐ声も聞こえなくなりました。このようなことから暴力団に対する住民の危機感はつのり、彼らに対する住民感情は激しさを増すようになりました。
7.望まれる法整備
一方、この暴力団組事務所が、私どもの地域から出て行っても、またほかの地域に組事務所を構えれば何もならないと考えることもあります。ここあたりを、暴力団の存在を認めない法整備をしないと、いつまでたってもイタチゴごっこだろうと思ったりもします。欧米ではこういう暴力団あるいはマフィアの組織を作ったり、組織に入ったりしたらすぐに逮捕されると聞いております。そういう意味では堂々と暴力団組事務所を構えているのは日本だけだということです。
昔、鹿児島でも地元の小桜組という暴力団組織がありました。この組織は今でも小桜一家と名前を変えて暗躍しております。この小桜組の時代には事務所入り口に相撲部屋のように木製の大きな看板を下げていたのを思い出します。しかし、こういった組織が警察の取締りにより地下にもぐるとなれば、これもまた怖いものがあると思います。
鹿児島市の市長にも要望しましたが、暴力団追放の条例でも作って暴力団関係者等のビル所有の禁止、あるいは事務所開設の禁止などを全国に先駆けて制定していただきたい旨、お願いをいたしました。昨年12月14日、県議会の総務警察委員会にもこの現状を訴えました。同委員会も議会としても出来ることを検討しましょうと返事をしてくれました。そして現在では、継続は力なりで、毎月第3土曜日に10時半と時間も決めまして、集会を開きパレードを実施している現状にあります。暴力追放運動の集会を定着させようと思っております。
8.犯人逮捕
今年1月、松下組長ら5名が私に対する傷害容疑で逮捕されましたが、私は当初、実行犯の逮捕は無理だろうと思っておりました。この実行犯も含めた逮捕は、警察の地道な粘り強い捜査による結果だろうと、改めて警察の捜査に敬服するとともに、感謝の気持ちでいっぱいでした。
この松同組がどんな組織かといいますと、指定暴力団6代目山口組、2代目弘道会、9代目稲葉地一家、6代目高村会、その下に松同組があると聞いております。併せて山口組の中でも活動的な弘道会の流れを汲む下部組織であることも知りました。こういった組織を相手に住民側の代理人として鹿児島県弁護士会の民事介入暴力対策委員会のメンバー16人の弁護士が訴状に名前を連ねてくれました。その中でも5名の弁護士が中心になり、私どもと連携を図ってくれております。
組事務所使用差し止めの仮処分の決定が下ったことを踏まえ、3月12日、鹿児島県議会議長を訪問し、今後の戦いとして訴訟費用、ビル買取の費用など諸費用の県からの財政面の協力の必要性を訴えました。3月16日には鹿児島市長を訪問し同様のお願いをしております。
そうした最中、3月14日、福岡県久留米市の市役所職員2名が来鹿され、意見交換をしましたが、久留米市も長年暴力団と戦っていることを聞き、行政の協力は絶対不可欠であるとの認識を得ました。
訴訟に入ってからは毎週のように弁護団との打ち合わせをやりました。なにせ私ども協議会は後ろ盾となる資金面で不安を感じておりましたので、鹿児島県暴力追放運動推進センターの協力をいただきながら、地域住民、関係機関、行政機関の職員の皆さんなどに幅広く寄付を呼びかけ、当面必要な資金をそれなりに集めることが出来ました。
寄付金の主な使用目的は訴訟費用、組事務所買取の際の一時金などに当てるのが目的です。資金活動の中で、遠くは弘道会の本拠地であります愛知県の弁護士会からも多額の寄付を持参していただき、その際、松同組の上部組織である稲葉地一家と民事裁判で闘争中であること、あるいは高村会の実態等についての参考情報を教えていただきました。
9.段階的な訴訟活動
訴訟も段階を経て準備を進めておりましたが、5月9日、住民代表119名による組事務所に対する使用差し止めを求める本訴訟を出しました。私個人の傷害被害にかかわる慰謝料および人格権に対する損害賠償請求、それに地域住民118名による人格権侵害に対する損害賠償請求、これらの申し立てを裁判所に行ったのです。
損害賠償請求の狙いは、賠償金を取るのにあるのではなく、多額の請求をすることによって事務所差し押さえ、事務所の名義を上部組織のフロント企業等への変更をさせないことが大きな目的でした。組事務所が善意の第三者の手に移ればこれに越したことはありません。こうしたいわくつきのビルの買い手はなかなかいないだろうと思いましたので、最終的には私どもの手でなんとかしなければならないと思っております。
私どもは資金不足ということもあり、訴訟支援費用も暴力追放センターの貸付制度を利用し、100万円を借り受けている現状にあります。しかし、他県では行政が基金によりそれなりの額を準備している自治体があることも聞いております。また他県では、一時的に暴力追放センターが物件を買い取り、ほかへ転売している事例もあるようです。
10.首謀者らの刑事裁判
9月17日、事件の首謀者である松下組長の傷害事件の裁判があり、私も法廷で意見陳述をしております。法廷に立つのは初めてのことでしたので大変緊張いたしました。この裁判において検察側は、罪のない市民への威嚇と報復のため組織ぐるみで行われた暴力団犯罪史上、数少ない卑劣な事件などと強い姿勢で懲役10年を求刑してくれました。
求刑に至るまでの間、私に対して事件の関係者からは、弁護士を通して謝罪したい、深く反省している、和解したいなどの内容が書かれた文書を送りつけて来ましたが、私としてはこの文書を直接受け取ることには抵抗を感じましたので、こちら側の弁護士にその判断をお任せしました。中には慰謝料として50万円払いたいとの内容もあったそうです。これについては相手の裁判上優位にしたいというもくろみも分かっておりましたので、もちろんこのお金を私が受け取るようなことはしませんでした。
私を刺した実行犯と共犯の一人は、7年の求刑に対し3年6ヶ月の判決が下りましたが、私はこのとき鹿児島地方検察庁に呼ばれ、担当検事さんから、この判決をどう思いますか、長いと思いますか、短いと思いますか、などと質問されました。私はこの時、法律のことも裁判のことも良く分かりません、裁きが下ればその裁きに従い、きちんと罪を償えばいいのではないですかと答えました。しかし、私の本音としては、7年に対し3年6ヶ月の判決は半分ということですから、私ども商売人からすれば50パーセントオフと、とんでもない大安売りであると思います。あまりにも短すぎると感じたのが実感であります。
案の定、検察庁も短いと感じたのか控訴しました。また相手側は長すぎるとして控訴しました。私は相手が控訴したことについて非常に憤りを感じました。裁判では謝罪したい、深く反省しているなどと言いながら懲役に行くことをためらい、弁護士を立てて少しでも刑を軽くしようとするその態度に反省の色を感じませんでした。本当に反省しているのであれば甘んじて求刑通り受けろよと、求刑通り受けて欲しいと思いました。
松下組長は裁判の中で、我々は暴力団でも組員でもありません、などと開き直りの姿勢で争う姿勢を示しました。また、裁判が始まってからは組事務所は地域住民を欺くかのように静かにおとなしく、私どもの暴力追放運動が沈静化し、ほとぼりが冷めるのを待っているかのように感じました。組事務所の周辺住民からの情報によれば、組事務所周辺の清掃をしたり、そのほか地域に刺激を与えない動きもあるように聞いておりますが、これは住民向けのパフォーマンス以外の何者でもありません。
9月2日には鹿児島県暴力追放センターと警察主催の第17回暴力追放県民大会が開催されましたが、大会の内容も組事務所撤去に関するプログラムの構成で、参加者1200人の前で私自身が暴力追放の宣言文を読み上げ、多くの参加者に暴力追放運動への参加を呼びかけました。
10月3日、私に対する事件の首謀者であった松同組組長、松下光生の判決が出ました。みなさんも全国ニュース等でご存知とは思いますが、10年の求刑に対し6年の実刑判決でした、私はこの判決を聞いて憤りを感じました。住民の皆さんも判決の軽さにひどく反発しております。
裁判官は判決理由の中で、被告が今後、暴力団事務所として使用しないとか、私が刺されたことについては卑劣で悪質であるが、幸いにも軽傷で後遺症もないなどと、情状酌量の余地もあるかのごとく申し述べております。私には裁判官の理由付けは到底承服しがたいものがあります。
組事務所として使用しないといっても組事務所を立ち退くと言っているわけではありません。私の傷が軽傷で後遺症がないなど論外であります。どこで調べたのか、どこで判断されたのか知りませんが、私には後遺症がないということです。人を刺すことはどんなに重大なことか。ましては一歩間違えば命取りになる可能性があることなど思いもしなかったのか、とても納得できる判決ではありませんでした。
刃物で人を刺すということは、それが軽傷であっても殺してしまってもその行為は同じです。裁判官から見ればしょせん他人事かなと思いたくなります。納得のいかない判決が下りましても、はなはだ失礼な言い方で申し訳ありませんが、2、3年もすれば転勤でこの地を去っていかれます。私どもはこの地に残って子々孫々暴力団と戦っていかなくてはなりません。同じ法曹界でも、検察官の考え方と裁判官の考え方はこんなに違いがあるのかとびっくりしました。幸い鹿児島地検はこの判決に対し傷害の程度だけでなく、犯行の悪質性と社会的影響の重大性をもっと評価すべきと控訴し、裁判の舞台は福岡高裁宮崎支部に移ることになりました。
また10月14日、福岡高裁宮崎支部で審理中の実行犯ほか1名の控訴審は残念ながら棄却され、結局懲役7年の求刑に対し、懲役3年6ヶ月と判決が確定しました。私としてはそのことよりも、あくまでも組事務所の撤去が目的ですので、刑務所に何年入ろうが、どうということはありません。彼らが出所しても、更生したり真人間になることは到底期待出来ないと思っております。
11.1日100万円の制裁金決定
一方、組事務所を使用禁止の仮処分決定がなされたあとも、組員がビル内に出入りしている状況があったことから、本年7月、制裁金を課す目的で間接強制の申し立てを起こしておりましたが、これにつきましては10月21日付で住民側の意向を全面的に認める決定が下りました。
決定の内容は、組事務所使用の目的で組員が出入りした場合は、一日100万円の制裁金を課すといった驚くべき内容でありました。彼らはこの決定直後から、カモフラージュかもしれませんが荷物を運び出す動きを見せて、現在ではこのビル内には組員の姿を確認することは出来ません。そういった面では一定の効果はあったのでしょうが、建物がある以上油断は出来ません。
私個人の活動としましては、去る11月11日、沖縄県那覇市で開催されました第17回暴力団追放沖縄県民大会にお招きをいただき、講演の中で私どもの取り組みについて広くアピールし、賛同を得たところであります。また11月16日には私の地元の山下小学校において、1500人規模によります、第22回鹿児島市暴力追放中央大会が開催され、この日も組事務所までのパレードを実施いたしました。
12.心の支えだった伴侶の死
最後に私事で申し訳ございませんが、家内のことに触れさせていただきます。私自身、大腸の内視鏡検査でどうしてもよくわからないところがありまして、PETという機械で詳しく検査をしてもらうことになりましたが、検査費用は夫婦で検査すれば割安ということもあり、家内を説得して夫婦で検査を受けることになりました。
その結果、私は大丈夫だったのですが、なんの兆候もない家内のほうが検査に引っかかりました。後に消化器科の精密検査で、膵臓がんで余命3ヶ月の宣告を受けました。これを知り、私は大変なショックを受けました。そしてがんの進行は止められないという絶望的な状況の中で家内は病院に入院しました。
家内は死ぬ前に私に対し、こんな暴追運動で大変な時期に何も手伝いできなくて本当に申し訳ありません、残念でなりません、と言ってくれました。また病気になったのは、あなたではなく私でよかった、あなたが病気で死んだら暴追運動のリーダーがいなくなるから大変ですと、自分の病気はそっちのけで私のことを心配してくれました。このことは今でも私の心に強く残っております。
13.強い信念と住民パワーの継続
私が刺されてから、早1年が過ぎましたが、私には今現在、暴力団に対する恐怖感も、何も怖いものはありません。私が一番怖かった家内も、もうこの世におりません。ですからこの世になにも怖いものはないのです。あるのは彼らに対する憤りだけです。今私の頭の中にあるのは、組事務所を撤去に追い込むことだけです。
これからの人生は暴力団追放に全力を注ぐ決意です。これが私のライフワークです。私もようやく人の役に立てるのかなと思っております。暴力団にとっては住民パワーが一番大きな圧力になるだろうと思います。だからこそ私を暴力で封じ込めようとしたのだと思います。
1年経った現在でも、組員はいないとはいえ、組事務所はいまだに存在しております。自分達の街は自分達で守る。強い信念がなければ目的を達成することは出来ません。組事務所の撤去は全住民の悲痛な願いです。
わが街に暴力団組事務所はいりません。自分達の街が安心・安全な街となり、地域住民が安堵して暮らせるように私が先頭に立ち、暴力団に対し恫喝、脅しには決して屈しません。一歩もひきません。一歩も譲りません。必ずや、いい結果を出したいと思います。
14.終わりに
本日はこのような大会に参加させていただき、ありがとうございました。私の話が今後、皆様方のお役に少しでも立てれば幸いと思います。
最後になりましたが、本大会を主催されました全国暴力追放運動推進センター様からは、鹿児島県暴力追放運動推進センターを通して物心両面に渡ってご支援を頂いております。この場をおかりして厚く御礼を申し上げます。今後ともどうぞご支援ご指導のほど、よろしくお願いいたします。ご静聴ありがとうございました。